いざ、海辺の工場へ
涼やかな風にたなびくコットンシャツに、美しいパターンで作られた素敵な着心地のパンツ。毎日の装いをいかに快適にできるかで、クオリティ・オブ・ライフにも大きな差が出てくるというものです。そんな一枚の洋服が、どんな道のりを経てあなたの手元に届いているのか。そんな風に思いをはせたことがある皆さまに、我らが「Short pants every day」のお洋服がどのように作られているのか、その様子をお伝えしようという今回の企画。
私たちが伺ったのは、「Short pants every day」の縫製を担っている、「日南ファミリーソーイング」さんの工場。宮崎市から港町日南市へ、美しい海岸線に沿って走る約1時間のドライブです。
工場に到着すると、皺ひとつない紺色のスリーピーススーツに、えんじ色のシンプルなネクタイをキリッと締めた会長の大磯忠夫さんが出迎えてくれました。もともとは紳士服を専門に作られていたという大磯さん、毎日必ず、スーツを着て仕事をされているのだそうです。
海辺の工場の歴史
昭和62年に大手縫製工場の子会社として創業した「日南ファミリーソーイング」。当時の宮崎は、誘致企業ブーム。沖電気や宮崎テックなど、電子関係の大手企業が次々と日南市へ誘致される中での創業でした。それから現在まで、地域の雇用を確保する上でも大切な企業として愛されてきました。
お話を伺った会長の大磯さんは、生まれも育ちも日南市。昭和32年に日南市役所へ入所し、工場の取締役に就任する前日までの約30年間務めあげたのだそう。市役所では税務や総務に携わられていたということで、もともと数字にお強いんですね、と聞くと「運がよかったんだと思います」と、経歴について話し始めてくれました。
フォーマルから「Short pants every day」の縫製まで
「工場の経営に携わりたかったこと、市長交代のタイミングだったことなどもあり、57歳まで勤めた市役所を退所しました。もともとは議員の方からの、当時の親会社である縫製工場が子会社化を進めているという話を受けてのことでした。家内の実家が製材所、私の方は建設業で、起業をしたいと考えていたこともあり、工場の経営に興味があったんですよね。話をいただいたときは49歳。その頃は定年まで勤めようと思っていたので、家内が取締役に就任し、日南ファミリーソーイングの経営がスタートしました」
退所の翌日から、工場の現場に入り100名以上いた従業員の名前を覚えるところから始めたという大磯さん。そのころは日南でも一二を争う働き先だった日南ファミリーソーイングですが、親会社でもあった大手縫製工場の倒産で、子会社含む500人近くの雇用が失われてしまいます。地域にとって働き口がないことは、過疎化にも直結する大きな問題。現在は市も総力をあげて地域活性化に取り組んでいるところなのだそうです。大磯さんたちはそんな逆境にも臆することなく、新たなチャレンジとして地元企業からの案件を受注することを決めました。それが、「Short pants every day」です。
「Short pants every dayさんのものは一つ一つデザインが違うでしょ。今まで作っていたのは、フォーマルでまとまったロットのものだったから、勝手は違うけど、面白いですよ。いいものを作る。喜んでもらう、というところが洋服を作る上での一番のやりがいですから。一度、東京の百貨店を訪れたとき、弊社で作っている商品を見ていたら定員さんに『これは宮崎の立派な工場で作ってもらっているんです』と声をかけていただけたことがあって。そういうときは本当に誇らしい気持ちになったものです。この仕事をしてきて、悪かったと思ったことは一度もありません。幸せな33年間だったね、と家内や従業員のみんなと振り返っていますよ」
お世話になった日南のために
「男はつらいよ」のロケ地にもなった眼鏡橋
新たな製品を作るため、スタッフの皆さんも総力を挙げて準備に取り組んでいただいたのだそう。お話を伺っているだけで、スタッフの方々にとっても居心地のいい環境なのだろうと想像できます。最後に大磯さんは、お世話になった日南の街へ“最後の貢献”をしたいのだと話してくれました。
「みんなそれぞれに、日南のために何かしたいと考えているはず。街の皆さんには本当にお世話になりましたから、これからもその手助けをしたいです。結局は人とのつながりや、感謝の気持ちが大切だという考えに立ち返ってくる。私が酸素を吸ってる間は、人や街や、関わってくださったみなさんのために、何か貢献をしたいと思っていますよ(笑)」
Text by Alisa Kuramoto
Photo by Kimiyuki Kumamoto